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南京大虐殺から73年 [戦争]

★チョンシャン・ゲートをくぐり、南京に入る日本兵、1938年1月4日
★日本軍による南京大虐殺から今年で75年が経過したが、Timeは当時の貴重な映像を21枚公開した。
見るに堪えない残虐な場面がいくつも出てくるが、日本人として歴史の事実から目をそらすことは出来ない。
上の写真は21枚の内の一つですが、残りは下をクリックしてご覧ください。
The Nanjing Massacre: Scenes from a Hideous Slaughter 75 Years Ago
75 years ago, on Dec. 13, 1937, Japanese troops captured the city of Nanjing, then the capital of the Chinese republic led by Chiang Kai-shek and went on a six-week campaign of carnage and slaughter that would be forever remembered as the “Rape of Nanjing.” Reports document widespread rape and the indiscriminate killing of civilians; some death tolls estimate over a quarter of a million people were killed. The incident, though, still rankles Sino-Japanese relations. Japanese nationalists contend that the death tolls are inflated and the majority killed were resisting Japanese occupation. To this day, pages in Japanese school history textbooks can incite heated protests on the streets in China. Then and now, the Nanjing massacre remains one of the darkest events of the last century.—Ishaan Tharoor
「75年前の1937年12月13日、日本軍は南京、そして蒋介石率いる中国国民党の首都を陥落した。そして6週間にわたり大虐殺・殺戮を行った。世に言う南京大虐殺である。無差別殺人により殺された一般市民の数は25万人以上にものぼると言われている。
この事件は日中関係に暗い影を落としているが、日本の愛国主義者たちは死亡者数は実際よりも多く伝えらており、死亡した人の大半は日本の占領政策に反対した者達だと主張している。今日に至るまで、日本の歴史教科書に記載されている南京事件の説明は中国の路上で過激な反日デモを扇動するような内容となっている。
当時も今も、南京大虐殺は20世紀で最も暗い出来事の1つとなっている。」.—Ishaan Tharoor
真珠湾攻撃は実はソ連スパイの陰謀だったーその3 [戦争]
アメリカ政府に対日強硬策を取らせるスターリン政権の思惑とは
★ルーズベルト大統領が中国大陸からの暫時撤廃を条件に日本に対する石油禁輸措置を緩和することにほとんど同意しようとした時に、ホワイトはヒステリックな内容の草案を作成した。
それは中国を血で汚れた金貨30枚で敵国に売ることは、極東のみならずヨーロッパでの我が国の国策を弱めてしまうことになり、ファシズムに対抗する偉大なる民主的な戦いにおいて、アメリカの世界におけるリーダーシップに陰りが生じてしまうことになるというものだった。
結局アメリカ政府は日本に対する石油禁輸措置を緩和することなく、日本に対して中国大陸から即時撤退、満州国の無効化、そして陸海軍軍需物資の3/4をアメリカに売却することを要求したのだ。
アメリカの強硬策に対して日本はついに宣戦布告をする
アメリカ側からのこうした要求は侮辱であり、脅威であると感じた日本政府は開戦やむなしと判断した。そこで日本は真珠湾やフィリピンにある太平洋艦隊に攻撃をかけるという代替え計画を進めていった。
そうした日本の計画により、スターリンはハリー・デクスター・ホワイトの工作におかげで東側からの日本との戦争を回避できたのだ。
ホワイトはアメリカの対ソ政策がソ連側の有利に運ぶように工作を続けていったが、ウイタカー・チェンバーズとエリザベス・ベントリーがソ連の亡命者であることが明るみになったため、ホワイトは財務省の華麗なる地位からあっという間に没落していった。
ホワイトは1948年に非米活動委員会にみじめな姿をさらした3日後に亡くなったが、自殺であることはほぼ間違いない。
ホワイトは1950年、FBIにより反逆者としての烙印を押されたが、日本軍の真珠湾攻撃を誘発させる命を受けていたという話は1996年にホワイトにスパイ活動を指示していたKGB陸軍中将ビタリー・パブロフが発表した回顧録の中で明らかにするまで世に知られてはいなかった。
ホワイトの工作活動のおかげてソビエトは救われたのだとパブロフは回顧録の中で述べている。
★Pearl Harbor 2.0という記事を書いたJohn Kosterは最近Operation Snow: How a Soviet Mole in FDR’s White House Triggered Pearl Harborというタイトルの本を出版、その中でソ連スパイによる暗躍で日米戦争が勃発したことを詳しく述べている。

Operation Snow: How a Soviet Mole in FDR's White House Triggered Pearl Harbor
- 作者: John Koster
- 出版社/メーカー: Regnery Pub
- 発売日: 2012/09/17
- メディア: ハードカバー
★この本の内容説明
「1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の背後にあって、この奇襲攻撃を日本に駆り立てたのは、ロシアであるということに対して、著者は疑う余地のない証拠を提供している。
これまで、日本による真珠湾攻撃は日本軍の見事な軍事作戦だとか、アメリカ諜報部の失敗だったとか、ルーズベルト政権の陰謀だとか、さまざまな憶測を呼んできたが、あの運命的な日の真実は今日に至るまで謎に包まれていたままであった。
機密が解除された証拠やこれまで翻訳されていなかった文書などを用いて、アメリカ人にとって屈辱の日とされてきたあの日の真実について述べている。
ジョゼフ・スターリンとKGBが2重スパイや共産主義シンパなどの広大なネットワークを駆使して日本をアメリカとの戦争に導いていったことが示され、真珠湾攻撃の背後にはソビエトの関与があったことは疑う余地がないとしている。
手に汗握るスパイ活動、ミステリー、そして戦争と"Operation Snow"はこれまでの真珠湾攻撃や第二次世界大戦に対する我々の見方を永久に変えてしまうだろう。」
真珠湾攻撃は実はソ連スパイの陰謀だったーその2 [戦争]

★1941年12月7日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃を受けて海中に沈みかけ延焼しているアメリカの戦艦ウエストバージニアとテネシーに向かう救助艇

★アメリカ議会で証言するハリー・デクスター・ホワイト
★第二次世界大戦前、ソ連の秘密諜報部は日本がアメリカと戦争すれは゛、ソ連の脅威となっていたモンゴルやシベリア侵攻への日本の野望を回避出来て、ドイツとの戦いに全軍を配備することができると考えた。
スターリン政権には幸いなことに、ワシントンには日米戦争を画策するのにまさにうってつけの人物がいたのだ。
彼こそ財務省の高官をしているハリー・デクスター・ホワイトなのだ。
日本とアメリカとの戦争を仕掛けたとされるハリー・デクスター・ホワイトとはいったいどんな人物なのか。
彼はボストンで労働者階級の移民の家族として生まれた。第一次世界大戦では非戦闘将校として軍務についた。
ハーバード大学で経済学博士号を取得したが、一流大学で教職員の仕事に就くことはできなかった。。1つには反ユダヤ主義者であり、1つには自分の部下に対しては小ばかにするような態度を取ったためだとされている。
フランクリン・ルーズベルト政権で財務省に勤務するようになる頃には、共産主義思想に共感、そして1936年頃までにはウイタカー・チェンバーズの協力を得て、日本と中国の政治・経済に関する情報をNKVDにリークしていた。
工作の発覚を恐れて、一時破壊活動を中止していたが、1941年5月にヒットラーとスターリンとの間に交わされた不可侵条約か゜破綻をきたすようになると、NKVDの工作員ビタリーイ・パブロフは緊急ミッションの実行を命じた。そのミッションとはアメリカと日本との間に戦争を勃発させることだ。そうすればロシアが2国(ドイツと日本)と前線で闘わなくても済むようになるからだ。
彼は財務省内での高い地位を利用して、フランクリン・ルーズベルト政権の重要人物と親しくなった。
彼は国務省でアジア外交の専門家であるスタンリー・ホーンベックという人物が日本人嫌いでアジア人はもともとは臆病な民族で簡単にだますことが出来ると信じていた人物だということがわかっていた。
そこでホワイトは財務省の上司であるヘンリー・モーガンソー長官と一緒になって絶大な影響力を行使していった。
ヘンリー・モーガンソー長官はルーズベルト大統領とは個人的に親しい間柄で、政権下では絶大な権力を持っていた。
モーガンソーとホーンベックを巧みに利用してホワイトはアメリカの対日政策を次第に強行路線へと誘導していった。
★その3に続く
真珠湾攻撃は実はソ連スパイの陰謀だったーその1 [戦争]
真珠湾攻撃は実はソ連スパイの工作によるものだった
★1941年12月8日未明、日本海軍が真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカに宣戦布告をして太平洋戦争に突入していったことは周知のことだ。
ところが、この日本軍による真珠湾攻撃は実は当時のルーズベルト政権にひそかにもぐりこみ諜報活動をしていたソ連スパイの陰謀によるものであったと主張する人が出てきて、いま話題となっている。
タイムが 2Pearl Harbor 2.0"というタイトルでこの記事を紹介しています。
タイムのこの記事の冒頭では次のように書かれている。
The “infamy” of December 7, 1941, is deeper than most Americans have ever imagined. The Japanese attack on Pearl Harbor was almost certainly the result of a Soviet plot—“Operation Snow”—carried out by Harry Dexter White, a figure of enormous influence in the Roosevelt administration and a known Soviet spy.
「1941年11月7日の屈辱の日(真珠湾攻撃)はたいていのアメリカ人が思っていた以上に奥深い問題なのだ。
日本軍による真珠湾攻撃はルーズベルト政権下で絶大な影響力を持っていた人物でソ連のスパイだったハリー・デクスター・ホワイトが行った「Operation Snow(スノー作戦)」の結果て゛あることはほぼ間違いない。」
Americans remember Pearl Harbor as the work of a Japanese military machine hell-bent on a war of conquest. The truth is more complicated.
「真珠湾奇襲攻撃はがむしゃらに戦争に勝利するという日本軍の作戦によって行われたものだとアメリカ人は思っているが、真実はもっと複雑なのだ。」
★当時の日本国内情勢
1930年代の日本は軍部な右翼の勢力が一段と強まり、露骨な自主強硬外交を展開、満州事変、満州国建設へと進んでいった。
そして1939年にはソ連と満州国の国境でノモンハン事件が勃発した。日本軍は惨敗を喫したが、ソ連はこの時日本軍に脅威を感じていた。
1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻を開始した。
こうした状況下ではソ連は、西側からはドイツが、東側からは日本軍の侵攻ーと2国の勢力と直面することになるが、この二国の勢力に同時には対応することが出来ない。
ソ連版ミッション・インポッシブル
そこでKGBの前身であるNKVDはワシントンにいるスパイに極秘任務を指令することになる。
それはアメリカと日本との間に戦争を起こすことだ。ーto provoke a war between the United States and Japan so that Russia would not have to fight on two fronts
この任務を託されたのがルーズベルト政権下にひそかにもぐりこんでいたソ連のスパイであるハリー・デクスター・ホワイトなのだ。
日本がアメリカと参戦すれば、ソ連は全軍を結集してドイツ軍との戦いに臨むことが出来るのだ。
日本が真珠湾攻撃でアメリカに宣戦布告をしたのは実はソ連スパイの諜報活動によるものだという衝撃的な内容ー詳しくは"Operation Snow"という本をお読みください。
手に汗を握るようなスパイ活動"Operation Snow"を描いたこの本は、真珠湾攻撃や第二次大戦に対するこれまでの我々の考え方をがらりと変えてしまう内容となっている。
真珠湾奇襲攻撃はRemember Pearl Harborとしてアメリカ人の心に日本人不信感を植え付けてしまったが、実はソ連のスパイ活動により、日本がアメリカに宣戦布告をするように仕向けられたのだという衝撃的な話した゛が、この本、日本語に翻訳されて日本で出版されたら大変な反響を呼ぶことは間違いない。
★その2に続く

Operation Snow: How a Soviet Mole in FDR's White House Triggered Pearl Harbor
- 作者: John Koster
- 出版社/メーカー: Regnery Pub
- 発売日: 2012/09/17
- メディア: ハードカバー
★この本の内容説明
「1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の背後にあって、この奇襲攻撃を日本に駆り立てたのは、ロシアであるということに対して、著者は疑う余地のない証拠を提供している。
これまで、日本による真珠湾攻撃は日本軍の見事な軍事作戦だとか、アメリカ諜報部の失敗だったとか、ルーズベルト政権の陰謀だとか、さまざまな憶測を呼んできたが、あの運命的な日の真実は今日に至るまで謎に包まれていたままであった。
機密が解除された証拠やこれまで翻訳されていなかった文書などを用いて、アメリカ人にとって屈辱の日とされてきたあの日の真実について述べている。
ジョゼフ・スターリンとKGBが2重スパイや共産主義シンパなどの広大なネットワークを駆使して日本をアメリカとの戦争に導いていったことが示され、真珠湾攻撃の背後にはソビエトの関与があったことは疑う余地がないとしている。
手に汗握るスパイ活動、ミステリー、そして戦争と"Operation Snow"はこれまでの真珠湾攻撃や第二次世界大戦に対する我々の見方を永久に変えてしまうだろう。」
真珠湾攻撃から70年 [戦争]
70年前の12月8日未明、日本軍が真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカに宣戦布告をし、第2次世界大戦が始まった。
この時真珠湾攻撃を指揮したのは当時の山本五十六司令長官で、間もなく、役所広司主演「聯合艦隊司令長官 山本五十六」という映画が公開されるので、その中でもあの当時のことが描かれるものと思われる。

日本軍の奇襲攻撃を受けてから70年になるのを契機にしたのかどうかはわかりませんが、Timeが当時の貴重な映像を公開しています。
1つ目はボブ・ランドリーというプロのカメラマンが日本軍の奇襲攻撃を受けた当日の貴重な様子を写真に収めたもので、Lifeという雑誌に投稿するために撮った写真とのこと。
2つ目は動画でニュース映画として作られたものです。前半は日本軍の奇襲攻撃を受けた真珠湾の様子を伝えていますが、後半はノルマンディーという定期客船がニューヨーク港内に停泊中に火災を起こし、炎上、湾内に沈没してしまった様子を伝えています。このノルマンディーという客船は当時、世界最大で、最速の客船だったようです。こうしたニュースを伝えるアナウンサーの声が70年後でもかなり鮮明に聞こえます。皆さんもぜひ聞いてみてください。
このニュースの中で、アナウンサーがかなり興奮気味に、Remember Pearl Harbor ! と言っているが印象的でした。
「写真集」(7枚)
Pearl Harbor Through The Eyes Of A LIFE Photographer
「ニュース映画」(約10分)
Newsreel: The Attack on Pearl Harbor
◆旧日本軍によって真珠湾攻撃が開始された1941年12月8日(日本時間)ーアメリカでは12月7日ーを当時のルーズベルト米国大統領は"the day of infamy"「 屈辱{くつじょく}の日」と呼んだ。
この時真珠湾攻撃を指揮したのは当時の山本五十六司令長官で、間もなく、役所広司主演「聯合艦隊司令長官 山本五十六」という映画が公開されるので、その中でもあの当時のことが描かれるものと思われる。

日本軍の奇襲攻撃を受けてから70年になるのを契機にしたのかどうかはわかりませんが、Timeが当時の貴重な映像を公開しています。
1つ目はボブ・ランドリーというプロのカメラマンが日本軍の奇襲攻撃を受けた当日の貴重な様子を写真に収めたもので、Lifeという雑誌に投稿するために撮った写真とのこと。
2つ目は動画でニュース映画として作られたものです。前半は日本軍の奇襲攻撃を受けた真珠湾の様子を伝えていますが、後半はノルマンディーという定期客船がニューヨーク港内に停泊中に火災を起こし、炎上、湾内に沈没してしまった様子を伝えています。このノルマンディーという客船は当時、世界最大で、最速の客船だったようです。こうしたニュースを伝えるアナウンサーの声が70年後でもかなり鮮明に聞こえます。皆さんもぜひ聞いてみてください。
このニュースの中で、アナウンサーがかなり興奮気味に、Remember Pearl Harbor ! と言っているが印象的でした。
「写真集」(7枚)
Pearl Harbor Through The Eyes Of A LIFE Photographer
「ニュース映画」(約10分)
Newsreel: The Attack on Pearl Harbor
◆旧日本軍によって真珠湾攻撃が開始された1941年12月8日(日本時間)ーアメリカでは12月7日ーを当時のルーズベルト米国大統領は"the day of infamy"「 屈辱{くつじょく}の日」と呼んだ。
第二次世界大戦ー731部隊 [戦争]
第二次世界大戦ー731部隊
Japan to Dig Site Linked to WWII Human Experiments
(WWⅡ=World War 2 )
第2次大戦中、旧日本軍が戦争捕虜に対して違法な生体実験を行い、細菌戦争を研究していたとされる731部隊のことを取り上げた英文記事です。
この部隊の解明につながるとされる発掘調査を政府が行うとのこと。
731部隊によって行われた数々の生体実験を政府はこれまで公には認めてきてはいないが、その全貌が徐々に明らかになってくるのでは。
無条件降伏をした終戦直後に上からの命令で生体実験により死亡した数多くの遺体、人骨、遺体の一部を埋めたと重い口を開いた元看護士が出てきたのである。
その元看護士が語った当時の生々しい体験談が国を動かし、今回の発掘調査に至ったとのこと。
調査は2月21の月曜日から始まると書かれているが、東京のどの場所で行なわれるのかについては触れていませんが、日本の報道によると新宿区戸山の一帯だとのこと。
これを機に731部隊の全容が明らかになることを望みます。
731部隊に関してはネット上に様々なデータがありますが、Wikipediaにはかなり詳しく載っています。参考にしてください。
「日本語訳」
日本は第2次世界大戦のあのおぞましい秘密が明るみになるかもしれない元陸軍軍医学校跡地を発掘する。
調査は月曜日の午後細菌戦争部隊である731部隊と関係がある元陸軍軍医学校跡地で始まる。その部隊が戦争捕虜に対して行った実体のよくわからない実験を政府は公式には認めてきてはいないが、歴史家や当事者達の証言から立証されてきている。
東京地区では政府の初めての調査であるが、終戦時にアメリカ軍が日本に進駐してくる時に遺体を埋めるのを手伝ったという元看護師の証言が出てきたのである。
厚生労働省の河内和彦氏によると今回の発掘は何かそこに埋まっていればそれを見つけ出すのが目的だとのこと。
「何か見つかるかどうかはわからない。何かを掘り当てても731部隊とは関係がないかもしれない。」と語った。
元看護師の石井とよさん88歳は2006年に60年の沈黙を破り語った。「私と同僚たちはその場所にあった陸軍軍医学校で多くの死体、骨、死体の一部を埋めるように命じられた。それは日本が1945年8月15日無条件降伏をし、アメリカ軍が日本に到着する前のことでした。」
彼女のこの証言が厚生労働省との直接会談、そして調査するという政府の約束へとつながったのである。しかし発掘は昨年、陸軍軍医学校跡地に住んでいた住民の移転とアパートの取り壊しが済むまで待たなければならなかった。
この跡地は生体実験の犠牲者と思われる何10体もの遺体が埋葬されていた共同墓地が厚生省の調査研究所を建設中に1989年に発掘されたもう一つの地域に近いところにある。
発掘予定地で何らかの遺体が発見されれば、731部隊とかなり密接な関係があるだろうと細菌戦争に詳しい神奈川大学の歴史専門家の常石敬一教授は語る。
「この跡地は731部隊の調査本部があったところで、もし遺骨が見つかれば、恐らく731部隊に関係したものと言えるでしょう」
中国北部の旧日本軍の支配下にあったハルピンの戦時基地では、731部隊とその関係部隊が戦争捕虜にチフス、コレラ、その他の病原菌を注射し、細菌戦争を調査していたことが歴史学者や部隊当事者の話して゛わかっている。731部隊は生体解剖をしたり、耐久テストなどを行い捕虜たちを凍死させたとも言われている。
1989年に発掘された何10体もの遺骨は、ばらばらになった大たい骨や頭蓋骨で、中にはドリルで穴をあけたものや、切断されたものもあった。犯罪が行われた形跡はなかったと警察は話している。
厚生労働省は、1989年に発掘された遺骨は731部隊に直接結びつくものではないという結論を出した。遺体はほとんど非日本アジア人のもので、医学教育に使われた遺体、もしくは医学学校で解剖するために、交戦地帯から運ばれてきた遺体だと思われると述べている。
「語句」
excavate「発掘する」
a germ and biological warfare outfit「細菌戦争部隊」
shadowy「実体のよくわからない」
probe「調査」
broke 60 years of silence「60年間の沈黙を破った」
face-to-face「面と向かい合っての」
pledge 「誓い、堅い約束」
relocation of residents「住民の移転」
demolition「解体、取り壊し」
uncover「発掘する」
vivisection「生体解剖」
have frozen prisoners to death「捕虜を凍死させた」
fragmented thigh bones「ばらばらになった大腿骨」
criminal activity「犯罪(行為)」
Japan to Dig Site Linked to WWII Human Experiments
(WWⅡ=World War 2 )
第2次大戦中、旧日本軍が戦争捕虜に対して違法な生体実験を行い、細菌戦争を研究していたとされる731部隊のことを取り上げた英文記事です。
この部隊の解明につながるとされる発掘調査を政府が行うとのこと。
731部隊によって行われた数々の生体実験を政府はこれまで公には認めてきてはいないが、その全貌が徐々に明らかになってくるのでは。
無条件降伏をした終戦直後に上からの命令で生体実験により死亡した数多くの遺体、人骨、遺体の一部を埋めたと重い口を開いた元看護士が出てきたのである。
その元看護士が語った当時の生々しい体験談が国を動かし、今回の発掘調査に至ったとのこと。
調査は2月21の月曜日から始まると書かれているが、東京のどの場所で行なわれるのかについては触れていませんが、日本の報道によると新宿区戸山の一帯だとのこと。
これを機に731部隊の全容が明らかになることを望みます。
731部隊に関してはネット上に様々なデータがありますが、Wikipediaにはかなり詳しく載っています。参考にしてください。
「日本語訳」
日本は第2次世界大戦のあのおぞましい秘密が明るみになるかもしれない元陸軍軍医学校跡地を発掘する。
調査は月曜日の午後細菌戦争部隊である731部隊と関係がある元陸軍軍医学校跡地で始まる。その部隊が戦争捕虜に対して行った実体のよくわからない実験を政府は公式には認めてきてはいないが、歴史家や当事者達の証言から立証されてきている。
東京地区では政府の初めての調査であるが、終戦時にアメリカ軍が日本に進駐してくる時に遺体を埋めるのを手伝ったという元看護師の証言が出てきたのである。
厚生労働省の河内和彦氏によると今回の発掘は何かそこに埋まっていればそれを見つけ出すのが目的だとのこと。
「何か見つかるかどうかはわからない。何かを掘り当てても731部隊とは関係がないかもしれない。」と語った。
元看護師の石井とよさん88歳は2006年に60年の沈黙を破り語った。「私と同僚たちはその場所にあった陸軍軍医学校で多くの死体、骨、死体の一部を埋めるように命じられた。それは日本が1945年8月15日無条件降伏をし、アメリカ軍が日本に到着する前のことでした。」
彼女のこの証言が厚生労働省との直接会談、そして調査するという政府の約束へとつながったのである。しかし発掘は昨年、陸軍軍医学校跡地に住んでいた住民の移転とアパートの取り壊しが済むまで待たなければならなかった。
この跡地は生体実験の犠牲者と思われる何10体もの遺体が埋葬されていた共同墓地が厚生省の調査研究所を建設中に1989年に発掘されたもう一つの地域に近いところにある。
発掘予定地で何らかの遺体が発見されれば、731部隊とかなり密接な関係があるだろうと細菌戦争に詳しい神奈川大学の歴史専門家の常石敬一教授は語る。
「この跡地は731部隊の調査本部があったところで、もし遺骨が見つかれば、恐らく731部隊に関係したものと言えるでしょう」
中国北部の旧日本軍の支配下にあったハルピンの戦時基地では、731部隊とその関係部隊が戦争捕虜にチフス、コレラ、その他の病原菌を注射し、細菌戦争を調査していたことが歴史学者や部隊当事者の話して゛わかっている。731部隊は生体解剖をしたり、耐久テストなどを行い捕虜たちを凍死させたとも言われている。
1989年に発掘された何10体もの遺骨は、ばらばらになった大たい骨や頭蓋骨で、中にはドリルで穴をあけたものや、切断されたものもあった。犯罪が行われた形跡はなかったと警察は話している。
厚生労働省は、1989年に発掘された遺骨は731部隊に直接結びつくものではないという結論を出した。遺体はほとんど非日本アジア人のもので、医学教育に使われた遺体、もしくは医学学校で解剖するために、交戦地帯から運ばれてきた遺体だと思われると述べている。
「語句」
excavate「発掘する」
a germ and biological warfare outfit「細菌戦争部隊」
shadowy「実体のよくわからない」
probe「調査」
broke 60 years of silence「60年間の沈黙を破った」
face-to-face「面と向かい合っての」
pledge 「誓い、堅い約束」
relocation of residents「住民の移転」
demolition「解体、取り壊し」
uncover「発掘する」
vivisection「生体解剖」
have frozen prisoners to death「捕虜を凍死させた」
fragmented thigh bones「ばらばらになった大腿骨」
criminal activity「犯罪(行為)」
戦没者遺骨引き渡しー硫黄島からの手紙 [戦争]
戦没者遺骨引き渡しー硫黄島からの手紙
Japan Vows to Find Iwo Jima Soldiers
By AP / ERIC TALMADGE Tuesday, Feb. 15, 2011
「日本、硫黄島の戦没者遺骨収集に全力」
![硫黄島からの手紙 [DVD] 硫黄島からの手紙 [DVD]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51kskxhFfML._SL160_.jpg)
この記事はTIMEが取り上げたものですが、TIMEは日本の出来事はあまり多くは取り上げることはないのですが、今回なぜかこのような記事を取り上げました。
硫黄島の戦没者遺骨引き渡し式が2月15日に行われ、この式に出席した管総理は戦死者全員の遺骨収集に全力を傾けると強い決意を表明しました。
昨年一年間で収集された遺骨は822柱で、年間ではこれまでで最多となりました。
2つの集合埋葬地が発見されたことがこのような多くの遺骨収集につながったようです。
昨年の12月には管総理自らが硫黄島に赴くなど、今回のプロジェクトには大変な力を入れていますが、どうやら日本でヒットした「硫黄島からの手紙」という映画に少なからず影響を受けたようです。
私もこの映画を見ましたが、あまりにも凄惨な戦闘シーンに思わず目を背けたくなるようなこともありました。しかし我々日本人が過去に体験したこの歴史的事実を風化させてはいけないと思います。
この映画をまだ見ていない方はぜひ見ることを勧めます。
なお今回収集された遺骨の大半が身元の確認が難しいということで戦没者墓苑に納められるとのこと。
「日本語訳」
日本の総理大臣は火曜日、記念式典で硫黄島の戦いで戦死した約12000人もの旧日本軍兵士の遺骨収集に全力を傾けると語った。硫黄島の戦いは第二次世界大戦で最も血なまぐさく最も象徴的な戦いであった。
管直人首相は硫黄島での戦没者の遺骨収集を政府の最優先事項としているが、822柱―年間の数ではこの40年間で最多―の硫黄島戦没者遺骨引き渡し式で次のように語った。
「硫黄島には未だ多くの戦死した兵士達が残っている。早急に全員の遺体収集に努めたい。遺体収集促進のために出来ることは何でもやる。」
遺体収集の数は急速に増えていった。この小さな島で2か所の集団埋葬地が見つかったためだ。この島は今は「いおうとう」と呼ばれているが第二次大戦前は島民たちはそう呼んでいた。
ごつごつとした絶壁を死守せよという任務を帯びた日本兵のほとんどがこの戦いで亡くなったが、アメリカ人6821人、日本人21570人の命が奪われた。
毎年数10柱の遺骨が発見されているが、12000人の日本人兵士と、218人のアメリカ人兵士が未だに戦闘中に行方不明になり、島で戦死したものとして扱われている。
硫黄島はアメリカにとって重要な拠点として見られていた。この島には日本の戦闘機が使用した早期警戒レーダーと3つの飛行場があり、東京や日本本土を爆撃するアメリカにとって脅威となっていたからなのである。
アメリカは護衛戦闘機用の飛行場を求めていた。
戦いは1945年2月19日に始まり、3月26日まで続いた。日本軍は広島と長崎の原爆投下を受けその年の8月に降伏した。
戦後世に顧みられることはなく、東京から約1100キロ離れたところにあるこの島は、大部分が手つかずのままの状態で残っており、小さな日本の自衛隊基地に駐屯している数百人の隊員を除けば今は無人島となっている。
2006年に日本でヒットしたクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」という映画に少なからず影響を
受け、また時間がもうないことを懸念して戦死者全員の遺骨を発見するため民間の調査隊を強化して、この硫黄島遺骨収集に終止符を打つべく、管内閣は相当な努力を努力を重ねてきたのである。
この遺骨収集プロジェクトは昨年の7月に始まり、10月には大きな進展が見られた。2000人以上もの遺骨が埋まっていると思われる2つの集合埋葬地が調査隊によって発見されたのである。
英文記事はこちら
その他の硫黄島遺骨収集関連英語ニュース
Japanese PM vows to find missing soldiers
Japan to speed up recovery of Iwo Jima war remains
Japanese PM: We Will Recover Iwo Jima's Fallen
Japan Vows to Find Iwo Jima Soldiers
By AP / ERIC TALMADGE Tuesday, Feb. 15, 2011
「日本、硫黄島の戦没者遺骨収集に全力」
![硫黄島からの手紙 [DVD] 硫黄島からの手紙 [DVD]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51kskxhFfML._SL160_.jpg)
この記事はTIMEが取り上げたものですが、TIMEは日本の出来事はあまり多くは取り上げることはないのですが、今回なぜかこのような記事を取り上げました。
硫黄島の戦没者遺骨引き渡し式が2月15日に行われ、この式に出席した管総理は戦死者全員の遺骨収集に全力を傾けると強い決意を表明しました。
昨年一年間で収集された遺骨は822柱で、年間ではこれまでで最多となりました。
2つの集合埋葬地が発見されたことがこのような多くの遺骨収集につながったようです。
昨年の12月には管総理自らが硫黄島に赴くなど、今回のプロジェクトには大変な力を入れていますが、どうやら日本でヒットした「硫黄島からの手紙」という映画に少なからず影響を受けたようです。
私もこの映画を見ましたが、あまりにも凄惨な戦闘シーンに思わず目を背けたくなるようなこともありました。しかし我々日本人が過去に体験したこの歴史的事実を風化させてはいけないと思います。
この映画をまだ見ていない方はぜひ見ることを勧めます。
なお今回収集された遺骨の大半が身元の確認が難しいということで戦没者墓苑に納められるとのこと。
「日本語訳」
日本の総理大臣は火曜日、記念式典で硫黄島の戦いで戦死した約12000人もの旧日本軍兵士の遺骨収集に全力を傾けると語った。硫黄島の戦いは第二次世界大戦で最も血なまぐさく最も象徴的な戦いであった。
管直人首相は硫黄島での戦没者の遺骨収集を政府の最優先事項としているが、822柱―年間の数ではこの40年間で最多―の硫黄島戦没者遺骨引き渡し式で次のように語った。
「硫黄島には未だ多くの戦死した兵士達が残っている。早急に全員の遺体収集に努めたい。遺体収集促進のために出来ることは何でもやる。」
遺体収集の数は急速に増えていった。この小さな島で2か所の集団埋葬地が見つかったためだ。この島は今は「いおうとう」と呼ばれているが第二次大戦前は島民たちはそう呼んでいた。
ごつごつとした絶壁を死守せよという任務を帯びた日本兵のほとんどがこの戦いで亡くなったが、アメリカ人6821人、日本人21570人の命が奪われた。
毎年数10柱の遺骨が発見されているが、12000人の日本人兵士と、218人のアメリカ人兵士が未だに戦闘中に行方不明になり、島で戦死したものとして扱われている。
硫黄島はアメリカにとって重要な拠点として見られていた。この島には日本の戦闘機が使用した早期警戒レーダーと3つの飛行場があり、東京や日本本土を爆撃するアメリカにとって脅威となっていたからなのである。
アメリカは護衛戦闘機用の飛行場を求めていた。
戦いは1945年2月19日に始まり、3月26日まで続いた。日本軍は広島と長崎の原爆投下を受けその年の8月に降伏した。
戦後世に顧みられることはなく、東京から約1100キロ離れたところにあるこの島は、大部分が手つかずのままの状態で残っており、小さな日本の自衛隊基地に駐屯している数百人の隊員を除けば今は無人島となっている。
2006年に日本でヒットしたクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」という映画に少なからず影響を
受け、また時間がもうないことを懸念して戦死者全員の遺骨を発見するため民間の調査隊を強化して、この硫黄島遺骨収集に終止符を打つべく、管内閣は相当な努力を努力を重ねてきたのである。
この遺骨収集プロジェクトは昨年の7月に始まり、10月には大きな進展が見られた。2000人以上もの遺骨が埋まっていると思われる2つの集合埋葬地が調査隊によって発見されたのである。
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