自由の地を求めて命がけの長い旅 [海外]

Why I fled North Korea
(CNN 2013/04/14)




北朝鮮を脱出、自由の地を求めて命がけの長い旅が始まる

CNNが脱北者の生々しくも危険に満ちた波乱の脱出劇を紹介しています。

ハイオンセオさんは北朝鮮に生まれたが、1997年に脱北して中国に向かった。現在は韓国に住んでいて脱北者の支援活動を行っている。

彼女は今年の2月に非営利団体であるTED2013 Conferenceでこれまでの体験を聴衆者の前で英語で伝えました。

以下はハイオンセオさんが英語で語った内容を日本語に訳したものです。
※各見出しは私がつけたものです

祖国北朝鮮はこの世のパラダイス?

「私は若いころ、自分の国がこの宇宙の中で一番素晴らしい国だと思っていました。
“Nothing to Envy”という歌を歌いながら、育ってきました。私は祖国を誇りに思っていましたし、北朝鮮での生活が当たり前だと思っていましたが、7歳の時に公開処刑を初めて目にしました。私の家族は貧しくはありませんでした。飢えを経験したこともありませんでした。しかし母の職場の同僚の妹から来た手紙には家族が飢えで死にそうだと書かれていて、その時初めて、自分の国はどこかがおかしいと思いました。1990年代の中ごろから後半にかけて北朝鮮は大飢饉に見舞われました。そして私の周りでは生活苦、飢え、死者などが目につくようになりました。

北朝鮮から中国へ

私がどのようにして北朝鮮を抜け出してきたのかについては今ここでは詳しいことを申しあけることはできませんが、若い時の飢えによる暗黒の日々のことについては話すことが出来ます。私は1人で中国に渡り、遠く離れていた親戚と一緒に過ごすことになりました。私は家族と離れて暮らすのはほんの少しの間だと思っていたのですが、家族と一緒に暮らせるようになるのに14年もかかるとはその時思ってもみませんでした。

中国では脱北者は違法移民とみなされていたので、私の素性がいつ明るみに出るのかとか、北朝鮮に強制送還されてまたあの恐ろしい運命の中に戻されてしまうのではないかといつもおびえていました。

ついに最悪の事態に

そしてついに私の最悪の悪夢が現実のものとなりました。中国の警察官につかまり、警察署に連行され、尋問を受けることになったのです。だれかが私のことを北朝鮮人だと通報したのです。警察官たちは私の中国語の能力を試そうと様々な質問をしてきました。この時私はもうこれで一巻の終わりだと思いました。しかし私は何とか感情をすべてコントロールして、あらゆる質問に答えました。そして釈放されたのです。まさに奇跡でした。

中国から韓国へ

素性を隠して、恐怖におびえながら中国で生活してから10年ほどが経過しましたが、私は韓国に行くことに決めました。韓国での生活に馴染むのは容易なことではありませんでしたが、私はある計画を立て、大学入試のための勉強を始めたのです。

韓国での新しい生活にようやく慣れてきたころに、ショッキングな電話を受けました。北朝鮮当局が私がブローカーを通して家族に送金していたお金を横取りしてしまったのです。私からの送金を受け取っていた罰として、家族は田舎の遠く離れた場所に強制移動させられることになったのです。

家族を北朝鮮から脱出させる

こうなってしまっては家族は北朝鮮から出るしかありません。そこで私は家族の脱出計画を立てました。

私は飛行機で中国に行き、北朝鮮との国境へと向かいました。私の家族は中国語が話せないので、私が付き添う必要があったのです。中国大陸を2000キロにもわたり横断してようやく東南アジアにたどり着きました。バスによる脱出の旅は1週間にもおよび、つかまりそうになったことも度々でした。

ある時、私たちの乗ったバスは中国警察官に止められ警察官がバスの中に乗り込んできました。警官はみんなのIDカードを取り上げて、様々な質問をしてきました。私の家族は中国語が理解できないので、みんな逮捕されると思いました。警察官が私の家族のところに近づいてきた時私はすかさず席から立ち上がり、この人たちは聾唖者なので私が付き添っているのですと説明しました。その警察官は私の顔を胡散臭そうに見ていましたが、幸いにも警察官は私の言うことを信じてくれたのです。

中国大陸を抜けてラオスへー家族が逮捕される

私たちは何とか無事にラオス国境沿いに到着出来ましたが、有り金の大半を使って国境の警備隊にわいろを渡す必要があったのです。国境を超えることは出来たのですが、家族は国境を違法に超えてきたとして逮捕され、牢屋に入れられたのです。

警察にわいろと罰金を払い、1カ月後にようやく家族は釈放されました。ところが、間もなくして家族はラオスの首都でまた逮捕されてしまったのです。この時は私の人生で一番つらい日々となりました。私は身も心もずたずたになり、脱出計画は失敗したと思いました。私は家族を自由の地へと導くためにあらゆることをやってきて、もう少しのところだったのです。今では家族は韓国大使館から少ししか離れていないところにある刑務所に入れられたのです。

私は警察署と移民局を何度も行き来して家族を刑務所から出してもらおうと必死で頼みました。しかし私にはもうわいろを払うお金はありませんでした。まさに望みはすべて絶たれてしまいました。

絶望の瞬間に救いの手が差し伸べられる

その時でした。「どうしたのですか。」というある男性の声が聞こえてきました。まったく見ず知らずの人が声をかけてきたので、びっくりしました。その方はファースト・ネームしか名乗りませんでした。私は片言の英語と辞書を使ってその人に今の状況を説明しました。そうするとその人はすぐさま銀行に行き、お金をおろしてきて、わいろを払ってくれて私の家族と2人の北朝鮮人を牢屋から出してくれたのです。

私は心からその方にお礼を述べました。そして尋ねました。「どうして私を助けてくれるのですか。」そうするとその人はこう答えました。「私はあなたを助けているのではありません。北朝鮮の人たちを助けているのです。」

見知らぬ人の親切と国際社会の支援活動が支えとなる

まさに私の人生を象徴するような瞬間でした。見知らぬ人の親切が私と他の北朝鮮人にとって、私たちが一番必要とする新しい希望となってくれたのです。見知らぬ人の親切と国際社会の支援活動がまさに北朝鮮の人たちが必要としている一条の望みであることをその人は私に教えてくれたのです。

私たちの長い旅もやがて終わりを迎え、家族と私はようやく韓国で一緒に暮らせるようになったのです。」



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。